「イーラ!」「ミッシェール!」「カロリーナー!」
最終グループ6分間の練習滑走。各国応援団の声援に混じって、「がんばれ美姫ちゃーん!」「しーちゃんガンバ!」そんな声も、今日はかき消されずにはっきり聞こえる。日の丸の旗も、こんなに応援団がいたんだ! とびっくりするほど会場のあちこちで振られている。
いろいろあったが、去年に続き、またふたりの日本人がこの世界選手権女子シングルフリー最終組に入った。クワン、スルツカヤ、コストナー、そして荒川、安藤。おそらくもっとも多くの人が、今年の最終滑走者として予想していた6人。そしてトリノ五輪の最終グループにも、もっとも近いところにいる6人だ。
男子やペアのようにトップ選手に負傷棄権者が出たわけでもない。今年のティモシー・ゲーブルや去年のスルツカヤのように、ビッグネームが不調で外れてしまったわけでもない。もっとも最終グループにふさわしい、ここに来るべき6人がひとつのリンクの上で今、最後の調整をしている。
大きな試合の最終グループ滑走前、この独特の張り詰めた雰囲気を感じていると、いつも思うことがある。彼女たちは今ここにいることの大きさ、ここで滑れることの幸福を感じているだろうか? 世界中にいる何千、何万というフィギュアスケートに賭ける少女たちが、もっともあこがれているこの場所に。
「しーちゃんがんばれ!」
そうだ、もうひとつ、きっと6人の選手がこの瞬間思ってもいないことがある。会場から贈られる声援の後ろには、テレビやネットの中継を通して、ここにはいない何十万、何百万の人々が、祈るような気持ちで彼女たちに声援を送っているだろうこと。姿の見えないスケートファンがあちこちで自分たちを見守っていること。そんなこともきっと、今の彼女たちの心にはない。
試合に集中している彼女たちにそんなことを伝えたいと思うのは、おかしいだろうか?
荒川静香は昨日よりは少しリラックスしているように見えた。遠目でよくわからないが微笑んでいるようにも見える。プラトフはしっかり彼女の手を握り、タラソワは笑顔で彼女の肩をもんでいる。泣いても笑っても今シーズンはこれが最後、みんなで楽しみましょう。そんな雰囲気だ。
大きなサプライズをこのリンクで起こしてくれることを願って、タチアナ・タラソワが荒川静香に贈った衣装。黒い衣装に身を包んだ今日の彼女は、ほんとうにぞくぞくするくらい綺麗だった。表情はいたっておだやか。滑り出すと、黒い風がリンクを駆け抜けていくようだ。
ほんとうに美しいスケーティングをする選手は、見る人の脳にアルファ波を出させるんじゃないかな、と時々思うけれど、本来の荒川静香の滑りはそんな滑りだ。ずっと滑りだけを見ていたくなるけれど、ジャンプはやはり固唾を飲んで見守る。これが跳べたら、彼女自身も乗ってくれる、彼女のスケーティングをもっともっと堪能できる!
しかし転倒こそしなかったものの、トウループを始めいくつかのジャンプで回転が抜けるミス。彼女がこだわっていた、やりたがっていたイナバウアーからのジャンプも抜けた。一年前のドルトムントの荒川静香を見た人にとっては、同じ選手を見ているとは思えないようなミスの続く演技だった。
ただ素晴らしかったのは、何度かジャンプミスが続いてもスピン、ステップなどその他のエレメンツをきっちり見せようとしたことだ。ショートプログラムの時のように、ジャンプのミスに演技が引きずられていない。最後まで気を抜かず、ミスなしでできる部分はきっちり見せたい、そんな気持ちを最後まで保つことができていた。
得意のキャッチフットスパイラルで見せた笑顔は、赤ちゃんの笑顔のようだった。以前、世界チャンピオンになったばかりのころ、日本で開かれたエキシビションでもこんな顔を見せたことがあったな。あの時の心境を尋ねると「本当に気持ちが良くて、自然にこんな顔になっちゃった」と言ってたっけ。
ほんの一瞬でもいい。このスパイラルの時一瞬だけでも、モスクワの氷の上で気持ちよさを感じて終わってくれたのなら――またそこから彼女はスケートに取り組んでいけるはずだ。
ドルトムントで4分間ずっと感じていた気持ちのよさを忘れないでいてくれるなら、またこの気持ちを味わうために、様々なハードな練習に、もう一年ん取り組んでくれるはずだ。
ロシアのスケートファンも、一年前の荒川静香を覚えていた。またあれを見せてくれよ。演技を終えたディフェンディングチャンピオンに向けて送られたのは、熱狂的ではないけれど、静かな賛辞の拍手だった。

これで荒川静香も、「世界チャンピオン」「世界女王」という肩書きを降ろすことができた。「任期一年、学級委員と同じですね」とチャンピオンなったばかりのころ彼女は笑っていたが、ちょっと重かったこの肩書きの任期は終わった。また今度「学級委員」になるときのために、しっかりその重さに耐えられる力をつけるための一年が始まる。
彼女は上がったり下がったり、たくさんの坂道を上り下りしてきた人だ。全日本ジュニア三連覇、長野五輪前年の世界選手権補欠の屈辱、16歳で勝ち取ったオリンピック代表、その後の不調とソルトレイク五輪代表落ち。そして昨年の世界選手権優勝。
なんのことはない、今回の9位という結果だって、いつもの坂道のくだりのひとつに過ぎないじゃないか。
もちろんこれから登る坂道は、これまで以上に険しいかもしれない。だけど荒川静香には、この道を上りきるだけのタフな体がある。まずは休んで、大好きなおいしいものをたくさん食べて、パワーをつけて、きっとまたこの坂道を平気な顔して登ってくることだろう。
彼女が途中であきらめることなく最後の道を登りきった時、また新しい物語が紡がれる。
Photo by M.Morita
世界選手権が始まるころから、毎日楽しみに読ませて頂いています。最近の、多くのフィギュアスケートに関する報道には、競技に対する愛情や競技者に対する深みのある視点を感じられなくて残念に思っていたのですが、ここにある記事(エッセイ風ではありますが)からは、現地で選手や競技を取材している「生の人間」として視点や愛情が感じられて、「こんな記事もあったんだ」と、感激していました。また、普段日本の報道では注目されないランクにいる選手のことや競技場の様子などの記事も、大変嬉しく思っていました。
そして、一般の報道では情報の少ない男子シングル、アイスダンス(特に少ない!)や先日の村主選手の話の時などもウルウルしていましたが、今日の記事は読んでいて、思わず本当に泣きそうになってしまいました。そして、「そのように思っている人はここにもいるよ!」って言いたくなり、ついにコメントを書かせて頂きました。
これからも、このような企画・記事を続けてください。楽しみにしています。